漫画評論家のある人によれば、

僕はよくシッポのある人間の物語をかくということですが、たしかにそういえば、なぜかそういうキャラクターにへんな性的魅力を感じて、つい登場させてしまうのです。なにか、性的な異常心理と関係でもあるのでしょうか?








というのは『0マン』の後書きの一節で、僕はオタクの奇異性という例で猫耳だの触覚だのを女の子にくっつけるたぐいの話が引き合いに出される度に(そんな機会は今までありませんが)この上の文を思い出します。

いきなりなんで神様の話かというと、さっきNHKの火の鳥・復活編を見ていたんです。生命が全て無機物に見えてしまう主人公が、唯一ロボット・チヒロシリーズの一体のみを女性として認識し愛している、という内容に、マルチの原型を垣間見たということなんです。本当ね、神様の作品の大ファンは大勢いますし、その中に昨今の漫画の凋落を憂う人もいるでしょうが、あんたらの大好きな神様はボクらの異常性癖の起源でもあるんですと、声高に言いたい。

ていうか、そうじゃなくて、名作はもっと萌えで語るべきなんです。過去の名作ほどその土壌として豊かなものはありませんて。ピノコは無理でも(むしろこれこそ異常性癖に近いものがありますが)、如月先生はキてます。メガネで、アンドロギュノス!(勘違い)。あと個人的には、これはかなり問題発言ですが、「未来への贈り物」に出てくるエリテマトーデスの患者さん。
『アドルフ』だとユダヤ人のエリザに、ナチの仕打ちとしてSS将校が

「こいつも大きくなればドイツ男性をたらしこんで汚れた血を注ぎ込むメス豚になるのだ!!」「群集に『私はメス豚の子です』と云え」

とか責めたて、挙句倒れたエリザの腹を蹴りつけたりと神様は好き放題です。個人的にはヒットラーユーゲントに入った時点でギムナジウムと同様、少年愛ですが。とにかく「名作こそ萌えで語れ」が今月の痴れ言ということで。