『電車男』を読んだ

存在自体は1週間ほど前に知ってちょっと見てシカトしてたけれど、「2ch文学」というステキジャンルが確立されたらしいので改めて読んでみる。

ジャンルとしてこういうのはアリなのかな。人気が出るのも分かるような気がする。でも新しいスタイルだといって真似して本書いても失敗するのは目に見えてる。その辺の違いが、なんだろ、このステキジャンルを特徴付けてるんじゃないですかね。「電車男」が主人公な訳だが読み手は主人公の手記を読むと同時にスレ住人の反応も見てるってのは、ある種「読み手としての感情」をリードしていく現象のような。

読み手は「電車男」がエルメス子と会って喜び戸惑うのを読むのとほぼ同時に、住人の励ましや共感の書き込みを読む。それは意識としては「電車男に対する好意的な感情がすぐさま住人の書き込みによって補完される」というか。住人がエルメス子との関係発展に期待を高めれば、それはそのまま読み手の期待として反映されるわけです。

電車男の書き込みを読む住人←その書き込みを読む読み手、というなんだ、滅多構造とか言いたければ言えるかもしれん。その構造がどうなのかはともかく、住人達の書き込みによって「作品を読む」行為自体が追体験みたいなカタチをとるわけです。「読んでいる」ことに対し逐一自覚的にして読み進めて行くのは、説明できませんが深いレベルでの没頭を生んでいる気もします。飛ばし読みの人もいるでしょうが。

で、これはやっぱまがりなりにもリアル話だから成立しているんでは。先にも述べたように、作家が全住人分の書き込みを一人で創作する形をとったってキショいだけでしょう。何故って掲示板での会話は一本道ではないから無駄に割く労力が多く、そこまで意図的に創作するのは上に述べた効果に対し作り手が自覚的であることを告白していることになっちまいます。それは「狙いがあざとすぎ」というか、テコ入れに気付いた時と同様の虚しさを生むだけです。

電車男』が完全にトゥルーライフストーリーかと言えばそれは知る由がないですが、このログ自体が複数住人の手によって作られたものだというのは了解事項となるので、読み手の態度としてはリアル話と受け止めるのが普通です。その場合、このスタイルは住人達へ読み手が自己投影する形での共感と、一体感をもたらします。

色々似たようなことを言ったけどつまり、「『電車男』の文体?の特異性は全てにおいてラストのカタルシスを増大させる効果を持っている」てコトです。いや別にコレに限らず今まで生まれてきた2chログの読み物はその性質を多少帯びてるでしょうが。しかしこれを機に「2ch文学」の創作となるかといえば、NOだろーなー。あくまで意図せず「事実は小説よりも〜」が生まれちまうところが鍵であって。とか読後に考えました。