トイストーリー3観た。楽しかったんだけど、個々のエピソード・カット単位でのハラハラやトキメキに素直に心を揺さぶられている一方で、全体のストーリーが割とどうでもよく思えている辺り、真っ当に映画を楽しむマインドを自分が失っているような気がする。以下ネタバレになるが、溶鉱炉に飲み込まれる場面で皆が手をつないで最期の時を待つシーンに「ここで終わっても十分ハッピーエンドだよな・・・」とウルってる自分に気付き、なんだか疲れてるのかなあと。


本筋とは多分関係ないところで同じくネタバレだが、非常に興味をそそられたのが、このオモチャ達の魂はどこに繋がれているんだろうという点。デモモードに切り替えられてそれまでの記憶を失うバズは集積回路がまんま頭脳なのか? と思ったけど、その一方でミスター・ポテトヘッドは胴体を失ってもポテチやポテトフライ?に手足目鼻をくっつければ自我がある。整合性を求めるのは野暮なのだけど、むしろそうした演出も認めてしまえる魂のあり方ってなんなのだろうというのが中盤以降ずっと気になってて、だからリセット処理されたバズが製造元のスペイン語で振舞うのは面白かったし、逆に記憶を取り戻すきっかけはどんな流れになるのかと期待していた分がっかりした。

まあ有体に言えば「どこまで壊れたら魂がダメになるの?」というのが分からなかったので、いもむし組の子供たちの乱暴な玩具扱いがあまり恐怖と感じられなかったこと、別の方面からいえば「次の世代に受け継がれるのもいいけど、遊ばれる中で壊れて天寿を全うするのは玩具の生涯として理想の1つなんじゃないの? 君たち永遠に仲良しサークルやってたいの?」という疑問がぬぐえなかったのが、全体のストーリーにあまり感情移入出来なかった理由かも。サニーサイドから逃げ出して生き延びたいという動機がどうもしっくりこない。


自分がどう観賞していたか考えてみると、そもそもの対立が「一時的な放置処分を耐え忍ぶ。主人の命に従い、いずれまた必要とされるまでの間待つだけのこと」vs「いま自分が最も必要とされる場所、能力が発揮できる場所に赴き役立つことこそが、存在意義であり己の使命」だと捉えていた。そうすると論点は「一方的に使役される存在である玩具には、自らの適材適所を主張する権利があるのか?」「玩具は玩具だけで幸せになってもいいの?」みたいな方向に流れていき、それは玩具に魂を与えたこのシリーズの根本的なところに踏み込んじゃうから・・・とか考えると、何と言うかつらい。
実際バービーは主人から明確に見捨てられ、同じ人形のケンと出会い恋をする。サニーサイドのイチゴベアー・ロッツォの取り巻きは子供との遊びよりも夜のルーレット賭博に喜びを見出しているようだったし、彼らが彼らの流儀でサニーサイドに王城楽土を築きこうとするのは、その犠牲になる仲間たち(家族たち)を救いたいというバズの想いと(子供に尽くすことが二の次になっているという点で)変わらない。人間不信のロッツォはゴミ処理場で「アンディが助けに来てくれるといいな」と捨て台詞を残すが、実際アンディは助けてくれない。サニーサイドを脱出したって目的地は屋根裏で、またお呼びがかかるまでの何十年を水入らずで愉しくやろうというだけなんだから、結局バズ達が幸せになるためには子供の存在は無くてもいいのか?(子供と遊んでナンボの恐竜レックスは満たされないかも) という流れでずっときて、最後になってやっぱりボニー家にみんなで行けばいいんだよというのは、意地悪な見方をすれば優しく扱ってくれる子供を取捨選択しているわけで、ロッツォのしていることと方向性が同じ。いもむし組はダメだ、ちょうちょ組ならOK。鑑賞中はここまで歪んだ目線で観ていた訳じゃないけど、使役される玩具の持つ権利というのがどうしても拭えず、その答えも結局出ていないのが、どうもスッキリしない理由なのかな、と改めて考えてみて思った。




まあこんな難癖はともかく、ゴミ処理場は恐かったしバービーケン着せ替えショーは楽しかったよね・・・というのは他に観に来ていた小学生の子供達と同じ思考回路でした。