ライプニッツの微分法はあらゆる微小な空間まで
微分=差異化していくために、点から点をつなぐ「持続」によって考えられたデカルト的な均質空間は、そのあらゆる地点で無限を内包する「穴」をうがたれ、分解され、解析されることになるわけだ。こうして、微分法は、観念的な均質無限(ニセの連続体)の場所を解析し穴をうがつことによって、そこに「超越」とは異なる「
したがって数を微分するとは、体系全体をささえるゼロ記号として超越者の位置に抽象化され遠ざけられていた無限を数の内部にとりもどしていくということ、「数−記号」という個体マッスに統一する力をすりぬけて、連続体に刻まれる「無限−点」としての起源における数に立ち戻っていくことを意味している。
・・・・親が「ここ、数学苦手だから分からない」と投げてきた、中沢新一の『チベットのモーツァルト』
- 作者: 中沢新一
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別にこの文章がトンデモだとか分かる分からないとかいうことではないんだけど(分からないなりにもライプニッツ−デカルトの対比が丁寧に解説してあると思った。勿論二章全体で)、自分の考えと数学上の性質がたまたま合致したからってなんでそんなに鬼の首でも取ったように、という「冷め」を知識人が数学話をするときに感じる。連続体→モナド って云ってりゃいいってもんじゃねーよ! 普通は連続体→連続体仮説 なんだよ! どうかな。ていうか、実数とか無限とかのゲンミツな話がそんなにそちらさんは新鮮なんだろうか、とさえ思いたくなる。影響モロに受けるなよ、僕みたいなカジリ野郎が喜ぶだけなんだよ。合致が自説を強固にするというなら、まず先に自然数論の「美しさ」に対する態度を、ポジションを宣言してください。